
~哲学カフェ
「ユートピアとは?」~
八月の末、教室でひっそりと開催した哲学カフェ(お菓子を食べながら深く語らう場)では「ユートピアとは?」というお題で、理想の社会、居心地のよい場所について、自分周辺のエピソードとからめて考えました。
○『自分の部屋』自分の好きなものが周りにある空間。「本や漫画、ぬいぐるみなどが手の届くところにある幸せ。」
○『誰にも干渉されない世界』「勉強しろ」「就職しろ」と他人に強制されない世界。「高校の時から一人旅が好きで、今までに尾道、金沢、秋田などなどを訪れました。」
○『世界全体がユートピアでないことが、ユートピア』全体が全員にとってのユートピアになることがないから、不満や苦痛を分かち合うことができる集団が生まれる。「きっとずぶに集まれることがユートピアなんです。」
○『文化的な社会』芸術・文化などわかりにくいものに興味を持つ社会。「オリンピックのロゴを作った人を(当初)模倣であるといって批判する風潮があったのが悲しかったです。」
○『寛容で、ひとりひとりが考える社会』数が多いことや、ステータスに惑わされないで自分で考える。「考えていることを怖がられるのはなんでだろう。」
こういう話を真剣にできるみなさんが「社会」の宝物だと思います。
あなたなら、どう答えますか?
(A. )
~自分のユートピアは自分で作る~
テニス部の副顧問をしていたとき、ぼんやり考えていました。
運動部というのは特殊な慣例で成り立っていることが多いですが、その部は、顧問の先生がゆるキャラで(正顧問も?!)、権威的で空疎な慣例は極力排するという方針でした。上下関係もゆるく、私が一番好きだったのは「みんなでコート整備をする」という制度でした。ボール拾いも後輩だけがするのではないところがお気に入りでした。
しかし、合理的、効率的がいきすぎて、いろいろなルールがないために「集団」として不安なときも多々ありました。私が一番嫌いだったのは、試合に出ないひとが友達、先輩の応援に来ないことでした。のみならず、休みであるということでした。強制されなければ、どんなに近所でも足を運ばないという意識の低さ。視野の狭さ。最初は、有無を言わさずさせる、というのが体育会の法則かもしれませんが、そういうやり方も私には違うように思われました。で、ただ見ているだけでした……
でも、いました。何も言わないでも来てくれる子が。誰にも応援に来てもらえないで試合に出ていたひとたちが、引退してから後輩の応援に来てくれました。私はとても嬉しく、感動しました。強制されずとも自発的に、行動することができる。足を運ぶということは、本当にまごころのこもった行動だ。ふらっと駆けつけられるひとになりたいものだ……じーん。
彼らはすてきな友達どうしでした。自分たちが一生懸命打ち込んだテニスに、後輩を含めたこの部活に、愛を持っているんだな……。その楽しげな様子を見て、後輩は確実に試合を観にくるのもいいなと思い始めている!!「僕も来年は後輩ちゃんの応援に来よ!」
私は、ここに本当の「自由」というものを見ました。本当の「自由」というのは「好き勝手に楽をする」という消極的なものではなく、「好きで勝手に面倒なことを楽しんでする」という積極的なものなんじゃないだろうか。このひととなら、面倒なことも楽しそうだ、大変なことも乗り越えられそうだという、本気のともだち。ひとりひとりが大切にされることによって、周りを大切に思うことができる。
自分のユートピア、自分が居心地のいい社会は、自分で作るものだという意識が、「社会」に対する当事者意識ではないでしょうか。労力をかけ、血、心を通わせて、丹念に、根気強く作っていく。自分の血、心の通っていない場所で、自分の色を出すことができない場所で、ひとは生き生きと生きることはできない。息をしていても殺されているのと同じです。
ただし、ひとりにとってのユートピアは、もうひとりにとってはディストピア(ユートピアの反対)になるかもしれないということをいつも覚えておかなければならない。私の考えるユートピアは、数の少ない、立場の弱いひとりひとりの、もっとも真剣で誠実なひとの、自分の部屋(心)の存在を認める、思いやる、尊重する、おもしろがる社会です。せっかく自分の色を持ったひとりひとりが、まんべんない「社会」色にすっかり染められてしまうのはもったいないと思うからです。そういう色を持ったひとが大切にされ、自分からドアを開けたくなるような社会、ひとりひとりに愛される全体を創っていけたらいいのだが……
……ひらけ、ごま!
ぶん・え あかまつ みさき
(高校こくご担当。新学期……学校でもアワユートピア作り!たぶん。)