ずぶの学校新聞 no.11 (2016.3 弥生)

~スチューデンツ・ファイル①~

 

休み時間。私は授業前の数分の間、教室のどさくさに紛れ込んで、ちゃっかりそこにいるのが好きだ。その日その時間のそのクラスの雰囲気が一目瞭然で楽しい。狂ったように騒々しいクラスあり、おびえるように物静かなクラスあり。話しかけてくる生徒あり、様子をうかがっている生徒あり、無視を決め込む生徒あり。そんな中、私の目に止まるのはだいたいひとりで机に座っている生徒である。眠っているのではなく、単語帳を開くのでもなく、本を読んでいる子、絵を描いている子。そういうひとりあそびをしている子の中でもとりわけ興味深いのは、やはり本を読んでいる子だ。しかもそれが娯楽小説(ラノベとか)でない場合は、特にひかれる。

 

こんな子がいた。

授業で村上春樹氏の話をしたら誰も反応がなかったのだが、ひとりだけ目を輝かせて読んだことがある!と答えてくれた子がいた。その一瞬、教室にふたりだけのコミュニティができてしまった。

あるとき授業後に、「これを読んでほしい」と本を貸してくれた。中村文則さんの「何もかも憂鬱な夜に」。現代小説をあまり知らず読まず嫌い気味の私だが、好きなひとが「私」に薦めてくれたものは読む。そのひとの心が嬉しく、そのひとを知りたいから。読んでみると、本当によい、純文学。なぜこのような本を知っているのかと聞くと「お笑い芸人の又吉君が好きで、その又吉君が薦めていたから」とのこと。又吉君の影響で、太宰治も好きだという。後生畏るべし、驚きの中学二年生だ。(芥川賞をとる数年前でした!)

彼女の文章は美しいというのではないが、展開に工夫や試行錯誤、野心の跡が見られた。燃えるエネルギーが感じられておもしろかったので、全体でとりあげたこともあった。漢字間違いなどは作文の場合、比較的大目に見る私だが、それでも結構あった。それは彼女が漢字を苦手としており、毎回の漢字テストで誰よりも点数がとれなかったことからも当然と思えた。昼休みに漢字の補習(なにそれ!)をしてみたりしたほどだった。けれども私はそのことをたいした問題とは思っていなかった。

私が学校を辞めたあと彼女は手紙をくれた。ひとりで苦しかった彼女は本に救われていたのである。その手紙は何度も推敲されたようで、構成がしっかりしていて分かりやすく、あふれる感情を存分に表現しながら無駄がなく、難しい漢字がたくさんあるにもかかわらず一字の誤りもなかったので、私はとても感動してしまった。内容もだが、それ以上にその誠実さに打たれたのだった。一語一語、辞書を引いては何度も確認して書いてくれたんだという、その心に。

 

漫画家に密着取材する番組「漫勉(まんべん)」で萩尾望都さんが「問題に直面しているこどもが好き。おとなも好き。」とおっしゃっていました。

 私がひとりでいる子にひかれるのも、だからかもしれない……。ひとり問題に直面していると、考える。探す。求める。行動する。そこから、「自分の」物語(人生)が始まるんじゃなかろうか……と思う。誰かが真摯に書いた文章は、「苦悩している(by太宰治)」誰かを救う聖書になるかもしれない。『人間失格』のように。また、彼女の手紙のように。

 

                           あかまつみさき

 (史記列伝にはまっています。人生いろいろ。豪傑の死に様に憧れる。)