
~われのみぞしる~
やっぱり作文の授業が好きなのだった。
先日書いてもらった、ある生徒の作文には次のように書かれていた。
「波に乗るには、海と友達にならなければならない。」
その子はサーフィンが好きだそうで、波に乗ったときの爽快感や達成感、そこに至るまでの困難をエネルギッシュに綴っていた。自分の体験を自然に言葉にしたものはいい文章だと思う。自分の言葉で語るオリジナルのお話。私には一生縁遠いであろう世界も、熱のこもった言葉を介してならば、想像することができるのだ。この一句は何気なく書かれているが、本人の経験から生まれた教訓なのであって、彼女の真実だということが分かる。
本当に、教室だけでは何もわからない。その人間がしていること、考えていること、どうしようもない不安、ゆるぎない信念、かねてからの希望。前に立っていて、ほとんど知らない。我ながら滑稽なものよと思う。
ちなみにその子は全く授業を聴いていないのだが、作文を読んで「この子は自分で生きていくな」と頼もしく思った次第。花丸!(花丸以来、とげがなくなってきたようだ。私の見方が変わったからかも。)
さて、先ほどの一句をこんなふうに言い換えてみてはどうだろうか。
「何かを学ぶには、そのものと友達にならなければならない。」
「友達になる」というのは、理解し、尊重し、容認すること。学びの意欲とは、そのものと「友達」になりたいと願う衝動ではないだろうか。それがまさしく生きる力のように思う。
ひとと「友達」になるとは、難事業である。今周りにいる家族、友人のことだって知っているようで、知らない。(24時間一緒にいるという場合は別かもしれないが、それでも。)家庭がすべて、学校がすべてだった時代はとっくに終わってしまったのだ。
歴史が、記憶が、無条件でそのひとを認めていると思い込ませているだけ。
ひとに認められて自分の存在を確認するのは嬉しいが、大人はいろんな世界を持っている。多面的で、あちこちに問題や矛盾を抱えている。だから、何かを認められても手放しに喜ぶことはもうできない。同様に、ひとつ認められなかったとしてもそれほど致命的ではないのであった。結局自分がしてきたことをくまなく見ているのは自分だけであり、考えてきたことも自分しか知らないのである。
孤独。
ほな、まず自分が自分を認めるんや! それは私の場合、文章を書くことで毎度更新され、確かなものとなっていく。そうしてやっと他人のことも認められるようになる。文章を通すとより深いところでひとを認めることができる気がする。生徒だけでなく、長年の家族や友人にも、本気で文章を書いてもらうのは嬉しい。
人間ならば、何度も何度も発見があるはず。そのつどそのつど認め合えるのが「友達」なのだ。
ぶん・え あかまつみさき
(方丈記ラブ。実際に行動に移した鴨長明は滑稽だけど偉大。)