
~~「ですよね?!?!」の連続~
7月は、THE YELLOW MONKEYの復活ライブとともに華々しく始まり、後半は内田樹氏の「戦争に負けるということ」(於・神戸女学院大学)、高橋源一郎氏の「僕らの学校なんだぜ」(於・大阪府立今宮高校)と立て続けに巨人の声を直接聴いてスーパーハイテンションで幕を閉じた。(さらに言えば、スピッツのニューアルバムが発売されるという追い風も吹いた。)
どのライブ(!)でも涙を流す私。普段心の中や外で私が思っていることをはっきりとことばにしてみんなの前で言ってくれるだけでうれしい。存在に救われる。基本的に、どんな場合も「あなたの味方だよ」「わかっているよ」「それでいいんだよ」というメッセージを勝手に読みとって泣いてしまうのであった。(都合がよいのね)大物のことばは、懐が深く、腰が低く、弱きものと目線を合わせながらも、射程距離が広く、長い。
内田氏の話を聴くのは二度目であったが、冒頭のちょっとした話ですでに泣いていた。「いい教育環境というのは小声で話しても声が通じ合う環境だ」というお話。神戸女学院大学の講堂はレトロでこじんまりとして趣がある。1933年、アメリカの建築家ヴォーリズの手によって建てられた。(講堂以外も。)声を張らなくてもマイクなしでも届くような設計になっているそうだ。現代の設計士はそのような配慮を一切しないという批判さえ、やさしく聞こえた。多くのひとは声が大きいひとを正しいとかしっかりしているとか安易に信じがちで、言っていることばの内容や人柄まで、自分から見よう聴こうとするひとは少ない。しかも声が小さい人には、声は大きくなければならないとか、もっと明るく前向きな姿勢を示せとか諭しがちだ。うっちーはそんなこと言わない。声の小さい人の話にもちゃんと耳を傾ける世界はすばらしい。「全員同じでなくていい」ということを認めてくれる。ですよね!!
高橋氏を拝見するのは初めてであった。終始きょろきょろソワソワしていて、はじめから壇上をおりて前の方を行ったり来たりしながら、話もあっち行ったりこっち来たりしながら、一見酔っぱらいのようなのになんとも鋭く、重く具体性のあるお話ばかり。(止まっているとものを考えられないそうだ。)国語教師に向けた講演会であった。自分で子育てをして、こどもがことばを覚える過程を目の当たりにしたことは大きな経験だったそうだ。
「赤ん坊は、ママをまま、パパをぱぱと認識して発するのではない。適当に音を出して、みんなが笑顔になったり、ほめてくれたり反応がよかったものを繰り返すのだ。つまり、喜んでもらうために、愛されるために、音を発する。これは実は大人になっても同じ。音が、ことばが、波紋を広げる。波紋から自力で学んでいく。愛されたいと求める気持ちがないと、ことばを覚えない。教えても無駄。子育て、教育はいつでも黒字。親が先生が、こどもや生徒から学ぶことのほうが多い。お得だからぜひ進んでやってみてほしい。先生は何かを教えるのではない。(ついつい教えてしまいがちだが。)存在で示す。媒介となって生徒にきっかけを与え、アクティブにし、どこかに行くお手伝いをする。教育は先生と生徒が互いに歩み寄ることが必要。生徒が教えてっていうまで教えない。生徒から教わっている教師が一番いい教師だ。」
たたみかけるように名言連発の最後の方は、目の前にいて(三列目に陣取る)ことばを話してくれているだけで泣けた。大人物には人類愛があるのだなぁ。存在で教える。私のメンター、また増えた。
「私」を明らかにすることがやっぱりやっぱり大事なようだった。私は文を書いてもらうときに大事なこととして「私」「私」言いすぎて、でもひとにはそれほどの手ごたえもなくて、もうそろそろ違うんじゃないかと思い始めていたのだが、やっぱりそうだった。ていうか、それしかない。それしかできないはずなのだ。
「自分に誠実でないものは、他人に誠実ではありえない。」(By 夏目漱石)……ですよね。
え・ぶん あかまつみさき
(8月の予定は本を綴じること、すいかを食べること。)