ずぶの学校新聞 no.18(2016.10.神無月)

~上から目線VS下から目線~

 

 

例えば、表現はとてもおもしろいけれど、ひとをこばかにしたり、自分のことを棚に上げたりしている文章を読んだときに、私がAではなくて、Bの成績をつけることは正しいことなのだろうか。今までの私ならなんのためらいもなく、むしろいらだちさえしながらBどころかCの判定を下していたかもしれないのだが。今、ペンが止まっている。

 

最近の私は下から目線が全面的に正義であるとは思えなくなってきているのであった。というより全面的に正義であるものなどない。NHKの朝ドラ「とと姉ちゃん」は感動的なドラマではあり、少なからず涙してもいたのだが、だんだん見ていてもやもやと気持ちが悪くなるようになった。もしかして自分がやっていることも、こういう正義のおしつけなのではないだろうか。かよわげで、はかなげな私は一点の曇りのない心を持っている?

 

私だって、日々ひとをこばかにしたり、自分のことを棚に上げたりして生活しているではないか。ただそれをそのまま書かないだけで。書くときは誠心誠意、最善を尽くすように、ひとをむだに傷つけないように、と意識しているだけで。それはとても難しいことで、現に今も、素直すぎる作文を書いたやつや「とと姉ちゃん」を大好きなひとを傷つけたかもしれないし。

 

で、どうしよう。私は、いいことをしているという熱に浮かされたくなく、私が好きなことを勝手にしているという姿勢を貫きたいのだ。そのためにも、必ず主語を「私」にして話をしたい。私はこれが好き。私はこれが嫌い。私はこれがおもしろいと思う。この「主語私作戦」は私一個人が責任をとるという意志表明で、別にあなたがそうでなくても当たり前だよという余白を相手に残すものだと信じている。

 

国語は先生の好き嫌いによって評価が変わるというが、それだけ人間の根本的な部分にかかわる教科だということである。本当は国語だけじゃない、教育というのは、よく言えば影響を与えるもの、悪く言えばおしつけであるという側面はぬぐいきれず、いろんな先生と、いろんな生徒とがふれあい、ぶつかりあいをするのが大きな学校のお役目であろう。しかしより真剣に学びたいものは自分が選び、自分を選んでくれる先生のもとに、積極的に弟子入りして修行することが一番互いののび率がいいんじゃないかと思う。ずぶの学校はそうしたもの好きをもっと引きずり込む場所として念のため開いておきたい。私自身が、昔から個人への弟子入り制度が好きで、自分の好きなひと(友人でも)に影響を与えられるのが好きだからである。

 

「書く」ということは、上から目線の自分を下から見つめ、自分とは違う誰かを想像しながらする、こみいった作業だと私は思う。こう書いてくると、先の作文はやっぱりBやないか!と思い始めてきた。なにをおじけづくことがあろうや。こちらとてひとを評価するなんてのは恐縮至極や、でも正しいかどうかは置いておいて、大事なのは「私」が責任者となって評価するということである。文句があるなら国語や学校全般にではなく、「私」に反骨精神を見せてほしい。傷つけ傷つけられてはじめて痛みが身に沁みて分かる、成長する、やさしさが生まれる。学校とは血みどろのリングである。長きにわたる真っ向勝負ののち土俵を離れるとき、許し許されることができればそれは万々歳、ナイスファイトなのである。

 

 

ぶん あかまつみさき

(覚悟が足りない。武士に憧れる。精神的にイケメンになりたい。)