ずぶの学校新聞 no.21(2017.1 睦月)

 

~ずぶのしろうとであるということ 1 学芸会編~

 

 

ずぶの学校の「ずぶの」ということばは、お察しの通り「ずぶのしろうと」からとっている。『日本語俗語辞書』(zokugo-dict.com)によると、ずぶの素人の『ずぶ』とは「全く」「まるっきり」といった意味で、ずぶの素人とはまったくの未経験者やまったくの部外者を意味する。主にそういったひとを侮蔑する際や、自分が素人であることを強調、自嘲する際に用いる、とのことだが、私は「ずぶ」ということばを「しろうと(アマチュア)」という意味の象徴として、自負、抱負の意味を込めて使っている。

 

昨年末に「学芸会」を開き、リコーダーを吹き、人形劇をした。これはただただ私の「ずぶ力」をいかんなく発揮するばかりの時間となった。かの岡本太郎氏の「他人が笑おうが笑うまいが、自分で自分の歌を歌えばいいんだよ。なんでも平気でやるべきだ」との教えを体現したかったのだ。行動で示してみたかったのだ。「平気で」これはなかなかに難しいことだぞ。こどもならば許されても、おとなならば……などと、すぐに言い訳がましく、卑屈になってしまう。何か、誰かに怒られるんじゃないか、笑われるんじゃんないか、と不安になってしまう。違う、上手い下手ではなく、怒られる、笑われるではなく、自分が自分のままであることを楽しむのだ。ジャイアンリサイタルなのだ。

 

終わってから、私はこういうかたちで、まちや芸術、教育に関わっていきたいという思いが強くなった。まちのおとぼけ余談集「ずぶぬれ」も同様に、私の美術的「ずぶ力」を発露する場所なのである。(ずぶぬれのもくろみは前月の文章を参照してください。)

 

 毎日毎日教壇にずっと立って暮らすことの危うさは、教師がプロ、その教室での絶対的な権威だと勘違いすることで、教室が思考停止に陥ることである。だから私は、教壇に居続けることはできないし、居続けたくないのである。私は私のままで立つ。授業はいつまでたってもゆるぐだやなと我ながら驚くが、それが私。思考する教室は、いらんことも言うし、文句も飛んでくるし、鋭くささる指摘もされる。しんどい。同時に、教師は同じことを生徒にすることもできる。お互い様だ。お互いが、お互いのことばを聴く気になれるのが民主的な教室だと思う。はたから見れば学級崩壊と映ったとしても、内実はお互いがよくわかっているものである。先生も、生徒も自由に、これからともに教室を作っていく仲間なのだ。

 

「わたしは何よりアマチュアであることを鶴見(俊輔)から学んだ。鶴見は、たとえば哲学において最高の「プロ」であった。だが、そのことより、他のすべての分野でアマチュアであることの重要性を考え続けた人だった。アマチュアであることは、実は、個人であることでもある。ひとは、何かのプロになりうるが、最終的には、なにものにもなれないかもしれない。けれども、自分自身にはなることができるのだ。

あらゆるジャンルを、専門家の「罠」にはまることなく、最高のアマチュアとして駆け抜けた鶴見は、そのことで、自分であることを貫いた。プロにもアマチュアにもなりきれないわたしにとって、鶴見は、まぶしい存在だった。そして「民主主義」はアマチュアのものである、という考えを、私はその鶴見から受け継いだように思う。」(高橋源一郎『丘の上のバカ ぼくらの民主主義なんだぜ2』まえがきより)

 

私はずぶのままで立つ。一市民として立つ。ワークとライフのはざまに立つ。

生徒も、まちのひとも、ずぶでもいてよく、ずぶでも発言してよく、ずぶでもものを創ってよく、というより、ずぶの「私」こそが考えるべきだ、行動するべきだ、と思ってほしいからだ。自分で考え、行動するようになり、自分が周囲から尊重されるようになれば自信と責任感が生まれ、異なる立場や意見の相手も尊重できるようになり、心ないことばを口にすることは自然となくなっていくのではないだろうか。

 

ぶん あかまつみさき 

(遅ればせながらあけましておめでとうございます2017酉)