


~おもしろ第一主義で~
ついに漫画家デビューしました。『枕草子』を授業でやっていて、いまいち話が分からないと言われたことがきっかけでした。中学生の時から漫画には興味を持っていて、少し描こうとしては画力がなくて断念する、ということを繰り返していました。しかし今回は、みんなに見せるというミッションがあった(楽しみにしてくれていた!)のと、枕草子のお話が個人的にもおもしろかったので、楽しんで描き切ることができました。ドリームズカムトゥルー!
描いてみて気が付いたことがたくさんありました。
「おもしろさ」を感じる前に、生徒が越えなければいけない関門がたくさんあるということ。しかし、文字と言葉だけでは関門が邪魔して、「おもしろさ」に行きつく前に、力尽きてしまうということ。しかも、学校の授業というのは先生の頭がテストファーストになっていて、そういうこまごまとした関門の方をしかつめらしく教示してしまう→生徒興味を失う、反感を抱く→先生気分を害する、怒る→生徒ますます離れる……という負のスパイラルがあるということ。
まったく逆だった。漫画ではおもしろいところをとりあげることができるし、細かいところは小さく書くことで興味を持ったひとが、自分からそちらへ向かえるようにしておけばそれでよかった。そんなこまかいことは、今怒って強制してまで教えるほどのことではないのだ。
そもそも私は『枕草子』の専門家ではない。けれども、文学や言葉の、ずぶの愛好家だ。より多くの人に、そういう世界もあることを紹介したい。ということもあるが、一番したいことはせっかく同じ時間、同じ場所を共有する縁を持ったのだから、この今の時空間をともに楽しんでほしいし、自らともに楽しめるひとになってほしいということだ。他人の話を聴いて、寄り添えるひとに、今ともに考えられるひとになってほしい。古典自体は自分に関係ないと思っても、今後忘れてしまうとしても、学校で大人から学ぶことは、そういう姿勢(生き方)であってほしい。そうであれば、やさしい大人になるはずだから。正のスパイラル作りは長期戦だ。
結果的に、今回は自分でも満足のいく教室が作れたと思う。そんなことはほとんどないのだが、私の中にあった表現欲を満たしつつ、私なりのおもしろさを伝える、私なりの教室が作れたんじゃないかなと思う。もちろん、生徒が前向きだったおかげなのだが。こどものころに遊んでいたことと今まで勉強してきたこと、授業経験の集大成に認定しよう。
奈良大学教授の上野誠先生の以下の文章を、これからも私のバイブルにしたいと思う。
文法より超訳 学生いざなう
多くの古典研究者がひそかに思いながら、絶対に口外しないことがある。それは古典など学んでも、屁のつっぱりにもならないということである。学生はもっとシビアーで、国語の教員を目指す以外は必要な単位だけ、日本文学科、国文学科は不人気学科の一つだ。そんな時代に私は、今日もおへそにピアスをした学生に、万葉の世界を熱く語っている。そういえば私とて学生時代に受けた授業で、印象に残る古典の授業など数えるほどしかない。では、なぜおもしろくないのか?
それは、多くの古典の授業が解釈のための技術を教えるからである。そんなものは、試験が終われば何の価値もない。だから、私は大学の1年生と2年生に対する授業は、おもしろ主義に徹することにしている。つまり、何をさしおいても、「万葉集って、おもしろい!」と思ってもらうことに、全力を傾ける。
ちなみに1、2年生用授業では出席は採らない。目指すは出席を採らなくても聞きたいと思う授業である。まず、授業は訳文から教えることにしている。それも、「直訳」ではなくいわゆる「超訳」から入ることにしている。こんな具合だ。
デートも、回数を重ねると、男女の付き合いも馴れ合いになる。だから時にはすっぽかしてしまうことがある。しかし、先にすっぽかしたら最後ちくちくといびられるぞーそんな男女の呼吸のようなものを歌った女歌がある。見てみよう。
来ようといってさ! すっぽかしちやうことあるのにだよ、来ないと言っているアンタを 来るだろーなぁーんて 待ったりはしませんよーダ 来ないよっていっているのに……バーカ。 巻4ー527
それを奈良時代のひとはこう書いた。「将来云毛 不来時有乎 不来云乎 将来常者不待 不来云物乎」(原文)と万葉仮名を教え、「来むと言ふも 来ぬ時あるを 来じと言ふを 来むとは待たじ 来じと言ふものを」と書き下し文を教える。
すると多くの学生たちは、示した「超訳」に意訳したり、補ったりした部分があることに気が付づく。万葉びとの気持ちがわかったことになるのではないか。以上を原文から教え、解釈文法で解説するとその間に聞き手は寝てしまうだろう。助動詞の働きなんて、あとでいい。
もちろん、高校の受験古文ではそうはいかないし、解釈文法の習得こそ古典学習の基礎であるという批判もあるだろう。しかし、学ぶことの楽しさを教えないかぎり、何もはじまらないのではなかろうか。最近の語学番組では、話せるとこんなに楽しいことがあると、アイドルが英語で外国のスターにインタビューしている。
必要なのは、動機付けではないか。かつて、犬養孝は万葉歌を歌うことを提唱し、そして自ら歌った。多くの人々は、犬養の歌で万葉の世界にいざなわれたが、研究者たちはそれを冷笑した。
私も、その一人だったかもしれない。しかし、今、私は私なりの朗読と、いわゆる「超訳」で万葉の世界を熱く語ろう、と思う。古典を読めば立派な人間になれる。そんなのはウソだが、とにかくおもしろいよ、見ていらっしゃい、聞いていらっしゃいと。
以上のような思いを込めて、私は3年前(まま)から、万葉集ホームページを開設して、いわゆる「超訳」をネット公開するようにした。
まだ、アクセス数は微々たるものだが、まずは楽しさを発信することが先である、と信じているからである。ライバル研究者たちのうわさは多少気になるが、万葉おもしろ第一主義で行こうと決めた。ちょっと恥ずかしいけれど。
上野誠の万葉エッセイへ
あかまつみさき
(仕事の優先順位、テストよりもネーム)