~「民芸」を追いかけて~
以前ご報告した通り、ずぶの学校のニュー校舎として、仲間の協力のもとあばらやだった古民家が息を吹き返しつつあります。「旧ずぶ邸」。
現在ずぶの学校は、まなびや活動(思考)をteracoで行い、あそびや活動(実践)をずぶ邸で行うという二大体制でお送りしています。teracoでは月一回の文学講座をはじめ、ずぶ邸では「創作文学民芸館」としてのオープンを12日に予定していますが、それらはいったいどういうものか、ここにきてじっくり考えてみたいと思います。
いつも何か特定のジャンルに位置づくことができない私ですが、大学は文学部出身であり、昔から「芸術」という分野に属することに憧れつつも不安があります。芸術大学への進学はすてきだと思う反面、自分の進むべき道ではないと変な確信がありました。畏怖というのでしょうか、その閉鎖的な(?)激しい競争社会にうすうす気が付いていたのかもしれません。
それは結局、学術の分野についても同じ考えを持つに至りました。大学という場所や、論文を書くこと、先生とお話することが好きで、ずるずる博士後期課程まで進んでしまった私ですが、去年初めて(!)学会に参加し、ここでまたしても同じ違和感を抱いてしまったのでした。
個性を大事にするとは難しいことです。みんなが上を向いて個性を突き詰めていくと競争社会になり、結果、脱落していく個性がほとんどだからです。逃げた、あきらめたと言われれば否定はできませんが、脱落するのも勝ちあがるのも、自分にとって幸せなこととは思えないのです。(負ける確信)
そこでぽっとほのかに浮かび上がるワードが「民芸」……私はこの言葉を庶民の芸術、ずぶの素人の芸術、アールブリュットの世界という意味で考えています。普通のひとが気まぐれでなんとなく、ときめきながら作ってみた作品は個性的でおもしろい。誰かと比べながら個性を知るのは楽しいからいいとしても、戦って順位をつけるのは嫌だ(便宜上するけど)。ゆるく共存すればいい。
無名性を保つことが共存の秘訣とは逆説的ですね。でも、きっと知ってくれているひともいます。それで十分としよう。こどもの絵で有名なだれかがいないように、ずぶの学校でもみんなが何かを作って、おのおの個性が爆発していれば、上を向いていなくてもそれが幸せなのではないかと思います。上を向けなかった、向かないひとの芸術。それでも「ときめき」「つづける」ひとの芸術。幸せになることにフォーカスしたい。
「文学」も同じです。物語、小説も、誰でも自由に考えればよいです。読書(解釈)も。
「読書をすれば国語ができるようになる」とか「読書全然してないからせなあかんな」とか、そんなにりきむことはまったくないです。点数をとるため、文字を早く読むため、筋を的確に追うための読書は上を向いた読書の仕方です。教養のため、人類の経験をなぞるために読むこともあるかもしれません。
ずぶの読書は、それを読んで、どの部分がひっかかったか、どう感じ、考えたか、どんなことを思い浮かべ、思い出したか……ということが問題で、同じ本を読んでも人それぞれ違う体験となるはずで、そこに個性があらわれておもしろい。(それを書くのが読書感想文)
授業では、それを問いたいといつも思っています。そして今度は大人に聴きたいと思ってはじめたのがteracoで行っている文学講座「文学momimomi」です。特に教えたいことのない私が唯一積極的に提唱したい「主体的な読書」。おかしな学校の教育のせいでついにわからないまま卒業してしまう、本の読み方。答えは自分で見つけるしかないという事実。自分の個性を肯定する勇気。私は、そのひとの人生から出てくる生の言葉、文脈を知りたい。
くりかえしになりますが、今回も岡本太郎氏の、あのずぶの学校の建学の精神となったお言葉でしめくくっておこうと思います。
「他人が笑おうが笑うまいが、自分で自分の歌を歌えばいいんだよ。何でも平気でやるべきだ。」
12日は、歌を歌おうと思います。ご一緒に、さんはい!
あかまつみさき
(作詞にチャレンジ。次は作曲!)