ずぶの学校新聞 no.33(2018.1 睦月)

続きを読む

ずぶの学校新聞 no.32(2017.12 師走)

~クリエイトとプレイ~

 

 

 

11月は前半に日曜学校を開いて歌を歌い、後半はフリーペーパー「ずぶぬれ」の4号を作っていました。何かしらを作って、披露する機会をあえて設けることで、変わってきたことがたくさんあります。

 

まわりのもの(すべてのものは誰かが作ったもの!)に対する興味・関心が湧いてきたこと。というより、切実に探し求めるようになったこと。

 

自分はどのようなものが好きな傾向にあるのか、統計をとるようになったこと(当社比)。占いも勉強中。

 

「罪を憎んで人を憎まず」を心がけるようになったこと。些細な通り魔に遭ったときは心の中で個人的に呪いはするものの、生物の単細胞時代を思い出すことで急場をしのぐ。

 

その後、どうしてそういう不幸が起こるのか、自分の欠けや社会(構造)の穴を省みるようになったこと。ことばを愚痴に使うのはもったいないと思うようになったこと。できるだけ不必要なことば(多い)をそぎたい。絶対に必要で変わらないことばを探すようになったこと。

 

話すときには変な感情がのらないように注意しつつ、言いたいことは言う(難しい、よく調子に乗って失敗)。人類愛に満ちたユーモアの精神を意識する。関係性は自分が作るものだと思うようになったこと。

 

服や布や紙や本や、自分の持てるものを奥にしまいこまずにどうすれば最も生かせるかを考えるようになったこと。心の傷も奥の奥にはしまいこまない、ふたをしない、あっさり外に出す努力をする。ものもひとも自分も殺したくない。

 

私が高校時代から好きなお笑いコンビ「ロザン」は、菅ちゃんが「ゼロからイチ」担当(ネタ、企画、コンビの方向性などを考える)、宇治原(敬称略)が「イチからヒャク」担当(指示を完璧にこなす、事務もする)なのだそう。宇治原は菅ちゃんの操縦するロボットですね。いやいや、お互いちゃんと分かっていて相手を尊重して役割に徹している、二人の人間関係が好きです。

 

「クリエイト」はゼロからイチを生みだす、人間らしい魅力あふれる能力だと思う。ずぶの学校を始めた当初の私はここに憧れていたのかなと思っていますが、最近は強欲なことにイチからヒャクを演じる「プレイ」もあきらめたくないのだということに気が付きました。

 

人間は誰でも、「クリエイト」と「プレイ」の両方の能力を発揮して生きていると思う。得意不得意(自分の中で?)があり、時と場合によってどちらかに偏ることはあるにしろ、本来は両方の能力の可能性を持っていると思う(隠ぺいしなければ)。両方必要だと思う。

 

生きている限り、ひとに接しないことはない。誰かと接する、ひとと交流する、人間関係を築くということは最初の一歩が「クリエイト」(空間づくり)であり、それを存続させるということが「プレイ」(時間づくり)なのではないだろうか。(プレイもクリエイトの一種といえるかも)

 

ちょっとヘンテコで、心のこもったクリエイトとプレイを、あわよくばいつでもしようと企んでいるひとになりたいのかなという気がしています。

 

「僕は思う。かりに不愉快になっても、怒りを覚えても、

歌に対しては(いや、その他のことでも)歌で返すべきだと思う。(略)

 

歌にすることによって、作品にすることによって、批判がただの批判ではなくなり、

個人を超えてすべての人への問いかけとなる。(略)

 

たとえば何かに対して批判したとする。しかしそれは必ず跳ね返ってくる。

「そういうお前は何なんだ」と必ず跳ね返ってくる。

メッセージとはそういうものではないか。歌とはそういうものだと思う。」

(早川義夫「たましいの場所」この世でいちばんキレイなもの)

 

 

跳ね返ってくる。へたでもいいから、とにかくちゃんと表現する意志を持ちたいと思う。

時にひとり相撲、時にひとり芝居でも。

できる限りどこまでも、クリエイト&プレイを続けたいなという気がしています。

 

 

あかまつみさき

(多種多様のごっこ遊び作・出演)

ずぶの学校新聞 no.31(2017.11 霜月)

~「民芸」を追いかけて~

 

 

以前ご報告した通り、ずぶの学校のニュー校舎として、仲間の協力のもとあばらやだった古民家が息を吹き返しつつあります。「旧ずぶ邸」。

 

現在ずぶの学校は、まなびや活動(思考)をteracoで行い、あそびや活動(実践)をずぶ邸で行うという二大体制でお送りしています。teracoでは月一回の文学講座をはじめ、ずぶ邸では「創作文学民芸館」としてのオープンを12日に予定していますが、それらはいったいどういうものか、ここにきてじっくり考えてみたいと思います。

 

いつも何か特定のジャンルに位置づくことができない私ですが、大学は文学部出身であり、昔から「芸術」という分野に属することに憧れつつも不安があります。芸術大学への進学はすてきだと思う反面、自分の進むべき道ではないと変な確信がありました。畏怖というのでしょうか、その閉鎖的な(?)激しい競争社会にうすうす気が付いていたのかもしれません。

 

それは結局、学術の分野についても同じ考えを持つに至りました。大学という場所や、論文を書くこと、先生とお話することが好きで、ずるずる博士後期課程まで進んでしまった私ですが、去年初めて(!)学会に参加し、ここでまたしても同じ違和感を抱いてしまったのでした。

 

個性を大事にするとは難しいことです。みんなが上を向いて個性を突き詰めていくと競争社会になり、結果、脱落していく個性がほとんどだからです。逃げた、あきらめたと言われれば否定はできませんが、脱落するのも勝ちあがるのも、自分にとって幸せなこととは思えないのです。(負ける確信)

 

そこでぽっとほのかに浮かび上がるワードが「民芸」……私はこの言葉を庶民の芸術、ずぶの素人の芸術、アールブリュットの世界という意味で考えています。普通のひとが気まぐれでなんとなく、ときめきながら作ってみた作品は個性的でおもしろい。誰かと比べながら個性を知るのは楽しいからいいとしても、戦って順位をつけるのは嫌だ(便宜上するけど)。ゆるく共存すればいい。


無名性を保つことが共存の秘訣とは逆説的ですね。でも、きっと知ってくれているひともいます。それで十分としよう。こどもの絵で有名なだれかがいないように、ずぶの学校でもみんなが何かを作って、おのおの個性が爆発していれば、上を向いていなくてもそれが幸せなのではないかと思います。上を向けなかった、向かないひとの芸術。それでも「ときめき」「つづける」ひとの芸術。幸せになることにフォーカスしたい。

 

「文学」も同じです。物語、小説も、誰でも自由に考えればよいです。読書(解釈)も。

「読書をすれば国語ができるようになる」とか「読書全然してないからせなあかんな」とか、そんなにりきむことはまったくないです。点数をとるため、文字を早く読むため、筋を的確に追うための読書は上を向いた読書の仕方です。教養のため、人類の経験をなぞるために読むこともあるかもしれません。

 

ずぶの読書は、それを読んで、どの部分がひっかかったか、どう感じ、考えたか、どんなことを思い浮かべ、思い出したか……ということが問題で、同じ本を読んでも人それぞれ違う体験となるはずで、そこに個性があらわれておもしろい。(それを書くのが読書感想文)

 

授業では、それを問いたいといつも思っています。そして今度は大人に聴きたいと思ってはじめたのがteracoで行っている文学講座「文学momimomi」です。特に教えたいことのない私が唯一積極的に提唱したい「主体的な読書」。おかしな学校の教育のせいでついにわからないまま卒業してしまう、本の読み方。答えは自分で見つけるしかないという事実。自分の個性を肯定する勇気。私は、そのひとの人生から出てくる生の言葉、文脈を知りたい。

 

くりかえしになりますが、今回も岡本太郎氏の、あのずぶの学校の建学の精神となったお言葉でしめくくっておこうと思います。

 

「他人が笑おうが笑うまいが、自分で自分の歌を歌えばいいんだよ。何でも平気でやるべきだ。」

 

 

12日は、歌を歌おうと思います。ご一緒に、さんはい!

 

 

あかまつみさき

(作詞にチャレンジ。次は作曲!)

ずぶの学校新聞 no.30(2017.10 神無月)

~お仕事は遊びと学び~

 

 

「一生をかけてやさしくなる! それだけは決まってるねん」

大学入試の面接練習をしていて、大学生活、そしてその先の目標を一緒に考えていたときに、そう言った生徒がいました。

 

す、すばらしい! 私が夏休みにあれだけ悩んだ「人生の目的」が、齢18にしてすでにはっきりしている! 感動しました。私もそれをそのまま使わせてもらいたいぐらい花丸。合格を確信しました。(その後「そんなん言うの先生だけやで」と言われ世のふしあなを呪った…)

 

夏休み前の段階では、「これこれの資格がほしいから、これこれの専門学校に行く」と言っていて少し心配だったその子が、大学に進路変更してだいぶん考えが変わった、というか、しっかりつきつめたのかなぁと想像します。(経済的・人的環境の恵みをちゃんと生かして)

 

どこまでやさしくなれるか、という戦い。「一生をかけて」と、資格とか、就職とか目に見えるゴールを据えず、やさしさに限界を設けていないところが大きくて豊かだと思うのです。

 

「ワーク・ライフ・バランス」という現代の標語について、鷲田清一先生は言っています。

 

「これがもし、仕事という公的活動と家族との私的生活とをうまく両立せよという意味なら、言われたくない。一企業の利益のためになすワークもまた私的であり、結局この標語は私的なものに専念せよと人に告げるだけだから。逆に、一市民としての活動に従事するかぎり個人のライフも公的である。そういう公的活動に個人としてもっと時間を割こうという意味なら、聞ける。」(朝日新聞・折々のことば 2016.8.13)

 

学校でも、ずぶの学校でも、一人一人との主体的な関係づくりは私にとっては大切で「一生をかけて」やっていきたいと思っている大仕事のつもりです。たとえその時かぎりであったとしても。

 

人間関係は家庭であれ、学校であれ、町中であれ、場所は問わないという考えです。より優先されるのが血ではなく、歴でもなく、現在の意志の強さによってでありたい。

 

それが「私」に対する意志の強さなら、私にとっては最も優先順位が高くなり、誠実な仕事をしたいと感じる。たまたまその場に居合わせた私にしかできない仕事。

 

しなくてもいいけどしたくてする仕事(仕事とはほとんどがしなくてもいいこと)を、私は表向き卑下して「趣味(遊び)でやっている」と言っていたけれど、他人に「趣味(遊び)」だとは言われたくない、ということに気が付いた。

 

最近は自分の中でも「仕事」の枠組みが変わってきたと感じます。それもこれも周りの方々に私のやっていることを「仕事」と認めてもらえたから持てた自信です。学校の外のひとと長く過ごすようになって、遊びでやっていることを授業に生かせるようになって、学校の学びに対する考え方も大きく変わってきたようです。

 

九月は「美しい星」の映画を観たことから、学校で学んできた方法や遊びで描いてきた絵を生かして、学校の外で授業をしてお金をいただきました。これは、遊びでしょうか、仕事でしょうか。私が「仕事」という自信を持つための応援をしていただいたことに感謝です。

 

 

あかまつみさき

(楽しそうに遊んでいることが私の仕事)

ずぶの学校新聞 no.29(2017.9 長月)

~ぼんやり考える人間(じんかん)~

 

 

テラコで行われていた講座の最終回で、ゲスト出演でお話させてもらうことになりました。今考える自分の「人生の目的」について。難問でした。(今もなお…)ぼんやり話しながらぼんやり考える、貴重な時間になりました。

 

ひとりひとりが、自分が考えてきたこと、理想や幸福についてを、真剣に自分のことばで語る姿、そしてそれをみんなで見守る時間、空間がすばらしく、学校の教室も、職員室も、家庭も、まちのどこでもこうであればいいのに……と思いました。いやむしろどうしてこうでないのだろう、と不思議に思います。参加していた方が「職場ではこういう話ができないから」とおっしゃっていましたが、それは聞き覚えのあることばでした。

 

二年前、ずぶの学校を始めた時に参加した哲学カフェで、若いお医者さんが「患者さんの死を受け止めることがどういうことかわからない、身近に『死』の経験がない、職場でも話せないのでここで話し合いたい」と自らの悩みを打ち明けました。最も「死」が身近なはずの病院が、医療従事者がそのような切実な課題を語り合う(心の)ひまもないのでしょうか。何よりも大事なことのように思うのですが、そういうこと、個人の悩み(ことば)がなおざりにされがちなのは学校でも同じです。(それどころじゃない…とはいうものの、そこが自分なりに解消されないと、どんどんおかしく苦しい方向へ行ってしまう…)

 

今年の夏休みは学校で、少人数(五人程度)で文学作品を読むという授業をしました。ひとりひとりが思ったことを話すことができる、わからないことをわからないと言える空間って(する側としても)なんて気持ちがいいんだろう、と思いました。ただそれだけのことが、普段からどれだけ殺されて生きている(息だけしている)かを、ひしひしと感じさせました。何でも話しやすい空気が本当の人間関係を作るのだとしたら、教室では(職場では)難しいのかもしれません。

 

自分らしく生き生きと生きるという理想に向けて、私は、おのおのが、おのおののことばを持って発することができるような空間と時間と人間(じんかん! 社会という意味です)を作りたい。そのために率先して常に「I(アイ)」で話すという野望がある。それは社会ではすぐににぎりつぶされがちなことばであり、苦しいことが増えるのは必至なのだが、それでも持ち続けたい理想である。自分が「I」で話すことができてはじめて、相手の「I」も尊重することができるはずだから。音も声もそのひとのオリジナルであるように、ことばも「自分」からしか発することができないのです。まずは私の話をするので、いつかあなたのお話を聴かせてください。

 

 

あかまつみさき

(お手紙、待ってます)